新説・日本書紀㉗ 福永晋三と往く
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2019年(平成31年)2月16日 土曜日
6世紀の蘇我氏と物部氏
飛鳥時代については諸説あるが、推古朝(593~629年)を中心とするその前後の時代としておく。
古今集に「世の中は何か常なるあすか川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」 (世の中は、いったい何が不変であるのか、いや、不変なものなどない。明日という名をもつ明日香川=飛鳥川も昨日の淵が今日は浅瀬になっている) という世の無常を嘆いた歌が残る。 私はこれを事実と考え、赤村で90度折れ曲がった今川の歌とした。仁徳天皇紀に「流末」の地が記録され、行橋市に流末がある。当時は水がたまり、田畑が埋まり、人々は船で往来したとある。そこで堀を掘り、川の水を北の海に流した。この赤村から行橋市の今川沿いの地こそ「飛鳥」の故地と思われる。 552年に百済の聖明王が仏像と経文を献上した。これによって、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾輿との間で対立がおこり、人民が疫病で多数死んだことから、尾輿は仏像を難波の堀江 (行橋市の今川河口)に投げ捨て、稲目の建立した伽藍を焼いた。 欽明天皇は百済の聖明王と組んで、任那復興に努めたが、562年、任那は新羅軍に滅ぼされた。 572年、仏法を信じない敏達天皇が即位。物部守屋が大連を引き継ぎ、蘇我馬子が大臣となる。敏達天皇は仏教を弾圧し、国に天然痘が流行し、人々は仏罰かと恐れた。天皇も天然痘にかかり崩御した。 585年、用明天皇が即位。587年、天然痘にかかり、「私は仏法に帰依したい。大臣たちよ議せよ」とおっしゃり、馬子と守屋が激しく議論する中、天皇は4月に崩御。陵は、みやこ町の橘塚古墳と思われる。 5月、物部守屋は軍を発動し、穴穂部皇子を天皇に立てようと謀る。 6月に、馬子は炊屋姫尊(後の推古)を奉じて、「穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」との詔を発し、2人の皇子を誅殺した。 7月に、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼそうと謀り、実行に移した。蘇我勢は劣勢に立たされたが、ついに守屋を倒し、物部氏総本家が滅んだ。
591年(崇峻4年)11月、2万余りの軍が筑紫に派遣された。この軍は596年(推古3年)7月に豊国に帰ってくるが、筑紫に何をしに行ったのか。 この日出処天子こそ「架空の聖徳太子」のモデルである。書紀からは消された筑紫の天子だ。彼は、「法興」という年号を建て、その元年が591年だ。先の豊国の2万余りの軍はどうやら筑紫の天子に召喚されたようだ。 翌「端政4年(592) 」、豊国の崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺された。
次回は3月2日に掲載予定です
橘塚古墳(みやこ町黒田)。用明天皇(橘豊日天皇)の陵と推測される